あの後のことはよく記憶になかった。 というより忘れてしまったのかもしれない。 仮面をつけるのは素顔が見せなくないからだ。 なのにその仮面が風化するようにボロボロと剥がれ落としてその中身を見せてしまった事は恥ずべきで忘れてしまいたい出来事だった。 しかもあの男相手に、だ。ただ本音を言えば。 (…悪い気分ではないのですけれどね…) ルートヴィッヒの顔も前より痛みなく見れるようになっ た。 いや、まだ小さい棘は残ってしまってい るような気分ではあるが、それでも無視出来る程度のもの。 これくらいの痛みならばローデリヒはまた苦しみを覚え ずに前通り振舞える。 完全に何もなくなるのは無理だろう。 まだだってローデリヒはルートヴィッヒと同じ場所にい たいと願っているのだ。 そして色々な事を飲み込んで、気持ちの悪いものがなく なったと気づいた時にはローデリヒは屋敷でピアノの前に立っていた。 何日かの事が夢なのか、それとも今が夢なのか。 両方現実なのを知ってそんな疑問を抱く。 そして弾くのを躊躇っていた鍵盤を見つめている。 今なら多分ローデリヒはまたピアノを弾ける。 けれどそれだけしかしなかった。 青天がテラスに続く開いた窓から覗いて、けれど光は強 すぎず木漏れ日が部屋に僅かだが照らす。 風は乾燥していて肌を優しく撫でるからローデリヒは薄 く目を閉じその音を聞いた。 そのまま心地よい風に砂のように浚われてサラサラと消 えてなくなるようなそんな予感。 緩やかなその時間があまりに静かで綺麗だったからローデリヒはそれでもいいとそんな事も考えた。 けれど。 「弾かねぇのか。」 「………」 ローデリヒはゆっくりと目を開く。 聞き慣れた低音でさえもこんなに静かに響くのはこの空 気のせいだ。 テラスのほうにゆっくりと振り向くと光 に溶けそうな銀とは裏腹に輝きを失わない赤を持った男が立っている。 「弾かないならメシ。」 「どんな亭主関白ですか。」 「うっせぇな。居候。…ヴィッヒは?」 「すぐに帰ってきますよ。」 草臥れた白いシャツをいつもよりボタンを開けて肌蹴、 男は部屋に入る。 足音さえも小さく響く。それは彼の帰ってきた音なのだ ろう。 「早かったですね。」 「おー、散々向こうに付き合っていい子ごっこしてやっ たからな!」 ケセセと変わらず品なく笑う。 実年齢は自分より上なのにその笑顔はやはりローデリヒ より若く見えた。 前よりまた痩せたのは軟禁のせいだろうが、でも顔はや はり晴れやかに見えた。 「奴ら阿呆で助かったぜー!まぁ俺様の演技が完璧だっ たせいだけれどな!」 嘘でさえ頭を垂れる事など抗うはずのプライドの高い男 はそんな風におどけている。 あの上司達を満足させるほどの謝罪をギルベルトはして 来たのだろう。 元々話を調べれば、ギルベルトが喧嘩をした相手はドイ ツの家の人間だけではなかった。 他の家の人間との道での喧嘩。 どちらかが刃物を持ち出してギルベルトはそこに仲裁し に入ったらしかった。 詳しくは知らないし聞かなかったので細かい事は分から ないが、ルートヴィッヒがそれを調べて訴えた事もあり更にギルベルトが形だけでも謝ればそこまで厳しい処罰など出来なかったのだ。 けれどもそうして偽りでも許しを請えるようになるまで の経過はきっとギルベルトにはあった。 その中にローデリヒはいたのかもいれない。 だからからかってやろうとしたが止めた。 罵る事は散々し合った。 残りの謝る事や礼を言うべき事もあった気がする。 けれどそれは何千年もの事を全て絡ませるとどれをどれ だけ言えばいいのかさっぱり分からない。 ギルベルトも同じなのだろう。 結局お互い何を言えばいいのか何て分からない。 だから結局は二人ともそこに触れないの だ。 「スープはあと30分以上は煮込ませてほしいです ね。」 「…じゃあそれまでやっぱりピアノだな。」 そう言ってギルベルトはピアノのすぐ横で座ってしま う。 「行儀悪いですね。すぐ近くにソファーがあります よ。」 「こっちの方が音がすきっ腹まで響くだろう。」 特等席。 そんな風に笑ってギルベルトは自分を見 上げた。 まるで何もなかったようにそんな事を言うからローデリ ヒも何も言えない。 演奏用の椅子を寄せて、鍵盤の前に座る。 「何がいいですか。」 「ベートヴェン。ピアノソナタなら第 29。ハンマークラヴィーア。」 「喧嘩売っているんですか。」 「弾けるだろうが、ケチケチすんじゃ ねーよ。時間も丁度いいだろ。」 「…スープが出来るまで30分弾かせ続けるつもりです か。」 「ちゃんと40分弾けよ。」 技術も体力も必要と言われピアニストを悩ませる難曲と 言われるそのリクエストを平然とするその意味は嫌がらせなのか信用なのか。 非常に微妙なラインだが、まぁ確かにあの明快でけれど 緩やかに壮大な音は単純にギルベルトの好きそうな曲だとは思う。ベートーヴェンは確か元々ギルベルトは好んでいたようだし。 「何様なんですか、貴方は。」 「てめぇには言われたくねぇなぁ!つうか文句あるなら 出て行けよマジで。居候。」 「貴方に言われる事ではありません。」 ギルベルトは変わりなくそんな事を。 ローデリヒにオーストリアへ戻れと言う。 …ドイツを作った男。 きっとそういう性なんだろう。 自分以外の他の国の名をないがしろに出来るのならば、 この男はきっともっと楽に生きていけた。 「…それにしても。」 食前に時間潰しにハンマーグラヴィーアなんて。 名ピアニストの演奏会の演目としてでさ えも避けられるこの曲を。 贅沢もいいところだ。 「…演奏不可能と言われてたこの曲を、こんな時に普通 頼みますか。本当に。」 「弾けないのか。」 「弾けますよ。」 挑発にはすぐに乗る。ギルベルトはそんなローデリヒに 笑った。 「………」 演奏不可能と言われていたこの曲を作り残したその意図 は。 いつか、弾けると信じたからだ。 そのためなら何十、何百、何万だって待っただろう。 そして残しただろう。 きっとその男は積み重ねていく歴史の歩みを知ってい た。 いつかに届くその音をだから残した。 屍の上に並べられる歴史の中にきっと綺麗な物を残した かった。 ローデリヒにもそれは分かる。 「……。」 「?どうした。」 「独占コンサートではなくなりましたね。残念なが ら。」 弾こうとする直前に指が止まる。 耳はローデリヒの方が良い。 だだだ、と走る音はすぐにギルベルトにも聞こえそして扉は開かれた。 「ヴェー!こんにちは!ローデリヒさんここ!?」 「待って、待ってよ。フェリちゃん!私まだ帽子も取っ てないわ!」 「!!!」 「御機嫌よう。エリザベート、フェリシアーノ。」 「あ、こんにちは!お誘い有難うございました、ローデリヒさ…って、あー!!あんた帰ってきてるんじゃない!!」 「え、ちょ、な!」 部屋に入ってきた細身の二人。 フェリシアーノに少し遅れて部屋に入ったエリザベート はふんわりと愛らしく髪を揺らしながら声を尖らせてギルベルトを睨んだ。 「しかも何よ!あんた心配させといて何そんな所で…! ローデリヒさんの傍でヌクヌクしているのよ、信じられない!」 「あぁああ、ちょ、待てよ!なんで行き成りフライパン 装備なんだよ!何もしてねぇよ!」 「…彼の心配をしてたのですか?エリ ザ。」 「!!ち、違いますよ!ローデリヒさん違いますよ!言 葉のあやというか!」 ワタワタとする彼女はとりあえずフライパンを下ろして ローデリヒの前でスカートを整える。 そんな後ろでフェリシアーノはいつもの明るい声で廊下 に声を投げていた。 「ルート!ルート!ギルベルト帰ってきてるよー」 「なにぃ!!?」 「…て、ヴィッヒもいるのかよ!?」 一気に騒がしくなってローデリヒはひとつ息をついた。 逃げようとするギルベルトを声で窘める。 「どこに行くのですか。聞いていきなさい。」 「ヴィッヒの説教とあの暴力女のフライ パンのフルコース味わえってか!」 「演奏が終わるまではさせません。いいからそこにいな さい。」 「いや、あの、」 溜息をつく。 そしてギルベルトを見下ろしてゆるり、と言葉を綴っ た。 「この屋敷で。」 「?」 「昼食をとって…優雅にお茶会をしなが ら…」 ローデリヒはゆっくりとあの時の言葉をなぞる。 ギルベルトが目を丸くするから返事に 笑ってやった。 薄く、けれど柔らかく。 「いつものようにピアノを弾くだけです。」 エリザベートとフェリシアーノ、…ルートヴィッヒと。 そして。 「だから貴方もいなさい。」 「……−」 「なんといってもハンマーグラヴィーアですよ。人数は 出来るだけいた方がいいでしょう。」 「ほぅ…ベートーヴェンか。」 「うわぁ!あの第29?本当ですか!私、生で聞くの初 めてです!!」 「俺もーさっすがローデリヒさん!弾けるんだ!」 「当然です。私を誰と思いで。」 「はん、…偉そうな口叩く以前に弾けて当たり前だろ う。えばる事じゃねぇよなぁ。音楽の国『オーストリア』さん?」 「………」 「あんたねぇ…」 「わ!」 「エリザ。すいませんけれど皆にお茶を淹れてくれませ んか。用意はもう台所にしてありますから。演奏の間飲んでいて下さい。」 「はい!恐縮です!」 ゆらり、とまたギルベルトを射抜く彼女の視線をごまか してローデリヒは鍵盤をひとつ叩く。 ポーン、と。 高い音はやはり空気に程よく響く。 これならば作業をしているエリザベートの所までちゃん と届くだろう。 ルートヴィッヒとフェリシアーノは大きなソファーです でに二人で座り聞く体勢だ。 そして最後にまたピアノのすぐ下で座っているギルベル トを一瞥して。 「始めましょうか。」 愛している鍵盤を叩いた。 きっとローデリヒはいつまでも弾き続けられるだろう。 何十何百何千何万と数える時間を。 国としての自分が語られる時間を。 世界の終末までもきっとこの指が動くのならば弾き続け る。 誰にどうと嘲罵されてもきっとこの指は止めない。 悲惨な歴史と同じように残されると信じて、この音を奏 でていたいのだ。 生きる事に真っ白に美しくはなかったかもしれない。 誰かを裏切った酷く悲しいだけの歴史かもしれない。 愛する者に聴かせられる優しい物語はなかったかもしれ ない。 それでも残したいのだと思えるのだ。 その中にたったひとつでも美しいと思える物があるのな らば。 誰かが耳を澄まして、貴方に聴かせられる音が、あると いうのならば。 貴方達が 貴方が 守ろうとしてくれたこの指があるのならば。 弾き続けよう。 世界の終わりの日まで。 ずっとずっと 一万年 この音が愛するあの人に届き続けますように。
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