彼を抱くのは、恐らくただ怠惰に続いているから、それだけだった。 だから中毒というほどに熱心なはずではないはずなのだが嫌悪感を抱きつつ止まらない手はやはりそう表現していいものなのだろうか。 けれども快楽を貪る、というほどに意識は浸かってくれない。 どこか浮遊感は常にあり、遠くでそんな自分の様を冷たく見下している。 我を忘れる事が出来ればいいのに、とそう思う。 そうすれば眠れる。 安らかに目を閉じて。 盲目に、まるで恋をした少女のように。 愛する事以外を排出した世界を形成出来れば。 その人以外全てを見なくていいそんな世界を手に入れられれば。 なぁ少女よ 愛以外が鎖された、その視界は。 隠された、その視線は。 そこに君に煩わせるモノは何もない? 「……青木さん。」 「−」 呆と畳の匂いを嗅ぎながら開いた窓から月だけを見ていたのでその声に少しだけ驚いた。 存在を忘れてた訳ではないけれど意識からは外れていて認識をしてなかったからだ。 それでも充分、酷い事だとはわかっている。 「何かあったんですか。」 「別に、ないよ。」 素っ気無い声だった。自分でもそう思う。 しかし実際何もないのだ。一人で少し意味のない思考を巡らせていただけなのだから。 小さな布団の中で寝たまま彼は座っているこちらを見上げた。 「寝ないんですか。」 「先に寝ていいよ。」 「明日は、」 「僕の事はいいだろう。別に君が心配することじゃあない。」 益田龍一という男は意外に気ィ遣いだ。 よく彼の上司には気が利かない、気が利かないと怒られているようだが、それは本当に気づいてないから出来ない、だけなんだろう。 気がつけば、気がつく事が出来れば彼はすぐに首を突っ込みがちである。良くも悪くも。 「……そうですかぁ。」 間抜けな声でまた彼は首を落とした。 長い前髪が無造作に敷き布団の上で散らばっている。 そして体勢を布団の中で変えて益田は何かを視界に入れた。 「青木さんは、」 「?」 「こういうこと、木場さんにもしたいと思うんですか?」 益田の視界にあるのは自分の手首だ。 その手首にある鬱血した跡。拘束の跡だ。月明りが結構にあるからそれは夜の闇の中でも見える。 頭元には視界を奪っていた布切れも落ちている。 ただ視界を奪ったのは彼−に『視えない』ようにだ。 益田の記憶に映像を残さないため。 青木と違い益田は彼とよく顔を合わしてしまう。視せたくないのだ。 まぁ手首の拘束は言い訳がない。 肩をさ迷うあの手が鬱陶しい、という理由ではあったのだが、結局は純粋に好んで縛っていただけでないかと思えば頷けてしまう。 「……随分、下衆な質問をするんだね。」 「…なら、下衆な事しているのは青木さんなんじゃないですか。」 「だろうね。」 けけけ、とからかうような彼のいつもの笑い声がこの素っ気無い部屋の中で篭ってよく耳に届く。 顔を顰めた。 「いやね、想像出来ないじゃないですか。青木さんがあの、強持てで厳つい木場さんに、ね、そういう無体な事するのはね。そうでなくても大事な相手でしょう に。」 「−無体か。」 少しだけ声が擦れた。 それを意図した喉の動きではなかったけれど何故かこの場に相応しい声に聞こえた。 「無体ですよ。縛って、詰って、ふしだらな事を言わせて。僕がいたいけな乙女ならば青木さん、これ洒落になりませんよ。」 「怒っているのかい。」 「そうじゃないですよ。いや別にね、こんな事まで僕が望んだ訳じゃないので、そりゃあ怒ってもいいのかもしれませんが、まぁ別に怒っちゃぁいません。ここ まで望んだのは僕でなくても誘ったのは僕ですからねぇ。」 「そうだね。」 重みのない声で相槌を打った。 「…僕の事が好きでもないのに」 「嫌いじゃないですよ。いや、どちらかといえば好きなんですよ。ええ、好きです。だから貴方だったんですよ。 他の人だったらそりゃあ怒っているかもしれません。」 「………」 彼が饒舌なのはいつもの事だ。黙っていればいつまでも喋る。 益田はそのまま、またあのふざけた笑い方をして少しだけ布団に頬を擦った。 「だって貴方とあの人は似てませんからね。ちっとも似てない。まぁ似られても困りますけれど。あんな人間が二人もいたら僕ァ身を壊す。…まぁつまり似ても ないのに、貴方を選んだのはそういう事なんでしょう。」 聞いてもいない事をダラダラと並べて益田は喉を鳴らした。 なぜ自分は彼のこんな言葉を聞いているんだろう。苛々するだけなのに。 「でも、もし榎木津さんだとしたら、こういう無体な事を僕にするのかな、と妄想するんですよ。妄想。」 「……あの人は、するのかい。」 「さぁ。あのおじさん結構、横暴ですからねぇ。するかもしれませんねぇ。まぁ、そう思うとやはり僕はこの無体も悪くない、と思ってしまうんですよ。…やは り僕は少々性癖がアレなのかもしれませんねぇ。」 益田はそのまま−まぁ、と付足す。 「有り得ないんですけれどねぇ。」 「………」 「有り得ない。」 ここで言う有り得ない、は。 榎木津と益田が、そうなるという事だ。 こういう時に益田は彼を崇高する人間を可哀想な風に言うが、その可哀想なのは自分なのだとよく分かっているのだと思う。 益田という男は何せ、彼に相当近く、それなのに、彼に一番遠い人間だった。 距離としては傍にいる。けれども、その距離の割に彼は榎木津という男との関係には溶け込めてないのだ。 彼の友人や身内よりも物理的に身近にいるというのに、未だに彼は榎木津という人間を理解できない。−しようとしていない。 それは彼は榎木津を誰よりも一番神聖化しているからのように思えた。 全てを投げ出すようにして彼の傍に向かったというのに、それなのに触れる事は己から放棄しているのだ。 例えば美術館などで美術品の造形を見つめるために近くにはよる事はあるがそれに触れる事は−けしてしない。許されてないのだ。 毎日銭を払い、ただ傍観している。 俗世の煤塗れの景色を忘れて。ただ見蕩れている。それだけだ。 だから、益田は榎木津への好意を自覚すると同時にその気持ちを− 諦めている。 けれどそれなのに、諦めていない。 触れる事を夢想する。 夢想するのは触れられぬ事を知っているからだ。現実で有り得ないから夢に見る。それを知る。けれどもそれを現実にしたいという思いが夢想させる。諦めれば 諦めるほどに−夢想する。夢想すればするほど−思い知る。 夢想するほどに不可能、なのだと。 不可能だからこその、夢想なのだと。 あぁ気持ちが悪い。気持ちが悪い話だ、とひしひし思う。だって、だって。 「そう思うとね、青木さんはどうなんだろうな、と思ったりしてしまうんです。」 「考えた事がないよ。」 「何で。」 「…『有り得ない』から、さ。」 自分も、夢想をしてないだけでそんな人間なのだ。 「有り得ないですかねぇ。」 「どういう意味だい。」 「いやいや、木場さんはだってね、榎木津さんと違ってまだ話が分かる人ですしね。青木さんが頑張れば何とかなる気がしているんですけれども。」 「分かるから、こそないんだよ。僕は男なんだから。まともな頭があれば何ともならない。」 「話が分かれば、切欠さえあればどうにでもなるかもしれないじゃないですか。理解してくれる。あのおじさんは駄目ですよ。僕とか誰とか、そういう問題じゃ ないんですよ。駄目なものは駄目。それだけですから。」 確かにそういう意味では益田の方が諦めは大きいのかもしれない。 けれど自分に言わせれば同じだった。 目的の底まで届かない縄がどれだけの長さがあろうと何も変わらない。 どれだけ近かろうと−底にいる人間が握り締めることが出来なければ意味がない。届かないだけなのだ。 「……もしあの人が、そういう趣味を受け入れたとしても」 「?」 「その時、選ぶのはどう考えても僕ではないだろう。」 「………」 「不毛だな、お互い。」 今更だった。 なぜわざわざこんな事を口に出さないといけないのかと苛立つほどに今更だった。 「……僕は、ないよ。あの人にこんな事はしないだろうし、そういう妄想はない。だって意味がないんだ。」 「ない、んですか。」 「ないよ。無駄だろう。期待して苦しんで何が楽しいのか理解に苦しむよ。…そうだね、きっと、僕はどうこうなりたい、と思うこの考えを捨てたくて、君を抱 いているんだ。」 そこまで言うと益田はまた顔を上げた。 そこまで日焼けしていないまだ若い肌の色が月に照らされる。 前髪の影でその顔は隠されたけれど口が動いたのは見えた。 「どういう事でしょう。」 「単純に忘れたいんだ。それに、嫌いなんだよ。こんな風に気持ちの悪い感情であの人の事を想う事は僕は、自分でとても嫌なんだ。とてもムカムカする。そん な気持ちを胸に入れたままじゃ眠りが悪い。…単純にね、寝つきが悪いのさ。でも誰かを抱けば少しはすっきりするだろう。男なのだから。あぁそれに特に僕は 君相手だと無体な事もしてしまっているね。…そうだ、そこまでして発散して、僕の気持ちがね、少しは晴れるんだ。君を抱くと忘れるんだ。…寝不足はおかげ で少し良くなった。」 気づけば少しだけ早口でそれは静かなのにまるで叩きつけるような言葉だったかもしれない。 考えて作り出た言葉、というよりは紐解いて零れてしまった言葉、だと自分で思う。 けれども出しているはずなのに、何かが積まれていく。 胃の上の辺りで何か小さな鉛のような物が少しづつ音もなく積み上げられていく。 「…僕はこの忘却がずっと続けばいいと思っているよ。」 「……少し歪んで、ますねぇ。」 「誘ったのは君だ。」 「ええ知ってますよ、だから、責めてないですよ。」 今度はふふ、と彼は笑った。 いつの間にか視線はお互いに小さな窓から覗く月だった。だから相手の顔を見ない。 「僕が誘わなかったら女を抱いていましたか。」 「さぁね、……僕にそんな女(ひと)はいないし、…僕は警察なのだから買う気はない。」 「警察だから?」 「…後ろめたい事をしていたら警察なんて出来ないだろ。」 「………」 その言葉に少しだけ益田は目を見開いたような気配だった。 その時に青木は益田のすぐ横に落ちている白い布を見つけた。 − 彼から隠れるための目隠し。 「そうですね。」 益田は乾いた声で言った。素っ気無いものだった。 −視界を隠す、彼から隠れる、その理由。 後ろめたいのだろう。 益田は怖がっている。 あの彼、榎木津にこの行為を視られてどう返されるか、知りたくないのだろう。 彼は同姓との行為を差別はしてない。 けれども好んではいないのは知っている。 榎木津が視てないフリをしても気まずくなるのは予想がついて。 そして視てないフリをされればきっとそれはそれで益田は小さく空虚を思い知るんだろう。 既に絶望はしてて、だから今日も彼は何も得ないのに銭を投げ出してただ触れてはいけない品を見上げている。 何度も目隠しをしないと出会えない暗闇の世界に目を瞑る。 けれどもそれがどういう事かを叩きつけらたくはない。思い知りたくない。 誰かに叩きつけられたくないから益田は自分でそれを自覚したのだ。 飾られているその像が自分を見ている人間の顔など興味もないなんてそんな当たり前の事を。 毎日見上げているソレはけして、自分にとって何もなりはしない、と。 益田はきっと言われたくない。 益田は馬鹿な男だった。 榎木津の元に行くために全てを捨てた男。 盲目だった。 まるで恋をした少女のように目隠しをする。 ひとつの物のためしか見えなくなるように、少女はその時、現世を全て捨てて視界を閉じる。 だからきっと青木の事は見えていない。 見えていてもそれはその眼球にではない。 少女の生きる世界は恋のために、愛する人以外を見ないように視界を閉じる暗闇の世界だけで。 その目隠しを開いた世界はただ呼吸をするだけの仮住まいだ。 意味はない。 だってその世界は目隠しの世界のためにならいつだって捨てられてしまうのだから。 目隠しを外した世界で、何を好きになるおうが変わらない。 美術館を出てしまった後に何を楽しんでも変わらない。 それは夢を見ることに疲れた少女の− 理性だ。 本当は、目隠しをしてしまえば− 恋する相手さえ見えないただの暗闇、なんて知っている少女の理性。 それでもいつかそれだけが目に浮かぶ生き物になれる事を、夢見て。 だって目を開いても、その人はいないのだ。 だから目を閉じる。閉じれば姿を想う。閉じれば目の前に相手がいない事を知らないですむ。 想い続けられる。 それがまるで− 彼岸に近い場所に立つ事だとしても、 それだけが誰にも受け止められやしない愛の証明なのだ。 自分が証明しなければ消えてしまう−そんな恋なのだ。 だから青木は目を閉じない。 誰も聞かないそんなものを証明する必要はない。 恋など消えても構わない。こんな気持ちにしかなれないから愛もいらない。 彼のように自分のためだけに証明するためだけに全てを投げ出せなんかしないのだ。 視界を閉じて、真っ直ぐ歩いたりなんか出来ない。 拝見するためのこの銭で何か買える、とかそんな浅ましい事だって考える。 目を閉じても、どこかで目を開いてしまう。 目を閉じている自分を愚かだと思ってしまう。 暗闇に酔えもしないそんな己の様が真っ当だと知っていて、でも惨めで、だからきっと益田が青木には苛付くのだろう。 蔑んで、でもきっと、羨ましい。 躊躇わずにその視界を閉じる彼、が。 「……」 益田はもう眠りにつくために目を閉じた。 それさえも何だか妬ましい。 どんな夢を見ているのかさえ、それを考えればやはり苛立つ。 夢どころか青木はまだ安らかな眠りさえ遠いのだ。 指先で彼の目を隠した布切れを拾った。 今日も恋する少女はこの布を微笑みながら瞼の上に巻 く。 手に入れられない絶望を知ったからこそ許される暗闇の中だ けの人を夢見るために。 自分が夢見なければ消えてしまう恋を証明するために。 証明しないと消えてしまうその恋を、想いを、小さな永遠に するために。 それを愚かだとだけで吐き捨てられないのは、きっとその少 女が優しく笑うからだった。
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