そんなに長い付き合いだった訳ではないけれど、一緒にいる事がそれなりに当たり前だったから特に深く何かを考えたりはしなかった。

ただ、あの夏。
青木の価値観とか、考え方とか。そんな物が少しだけ変わっていく切欠になった夏。

あの夏から時々、世界が歪むような事件が何度かあった。
その度に彼はその眩暈が起こるような禍々しい事件の中に躊躇わずに足を踏み入れる。
自分はその度に着いて行こうと必死になっている気がする。
彼の足はいつでも真っ直ぐに進む。
けれども自分はそのぐにゃり、と脳を揺らすような、何かこの世のモノではないモノが揺らすような世界で方向感覚をなくすように転びそうになる。
足が震えて、躓いて、意識が揺れる。

青木はその度に出来るだけ冷静に勤めようとはしていても意識の奥がぐらつく感覚を抗えてはけしていない。

そんな青木を知らないように、彼はそれでも止まらない。

木場は− 進んでしまう。
確かな地面を取り戻すために彼は迷わず進んでしまう。
置いてかれる心地。
見えるのは既に彼の背中だ。

けれども−その横には、居るのだ。
自分以外の誰が、誰かが。
その隣に、歪みなく、彼と並ぶ。― その事実。
(ああ)

それをどこか呆然とした気持ちで見詰て思う。

この喪失感。この焦心。この− 求めるような心地。
これは……恋、だと思う。
そして同時に気づくこの絶望感。自己へ失望。痛み。
この恋は− 無駄だと、知る。



対等にさえなれない、この心臓では。






「どうした。」
「え?」


薄暗い濁った空気の酒場でカン高い声が小さく通った。
青木は顔を上げると同時に手にしていたコップを僅かに揺らす。
向かいに座る木場の顔を見上げた。

「もう眠ぃのか。」
「まだ二杯目ですよ。」
「酔う時はそれでも酔うじゃねぇか、てめぇは。」
「さすがにそんな事ないですよ…」
「ならもう少しシャッキリして付き合えよ。面白くねぇ。」

久々の酒の付き合いだった。
何かと最近おかしな事件が増えて彼はその度、問題を起こし何かを忙しかったのだ。
前の房総で決着がついた事件は青木も関わりそれはよく分かる。

面白くない、と言いつつ今日の木場は何だか機嫌が良く、ペースが早い。
同じ調子で飲めばそれこそあっという間に青木など潰れてしまうから少々愚図ったく飲んではいたのだ。
それなのに木場は少しだけ笑うとまだ酒の半分入っている青木のコップに酒を更に注ぐ。

「今更ですが鬼の木場刑事に酌されていると思うとなかなか感慨深いですね。」
「あのなぁ、するよ、それくらいは俺だって。お前とはともかく目上の人間と飲みゃあそれくらい礼儀だろ。」
「さすが先輩、大人ですね。」
「…お前は本当に時々生意気に減らず口を挟むよな。」

そんな風に言われるのもいつもの事だから笑って誤魔化す。
穏やかに注がれた液体をまた口に含む。
その時に唐突な声が大きな音と共に響いた。

「やっぱりここか!箱男!」
「……っ!」

よく通る声が狭い酒場で大きく聞こえた。
いつものように遠慮なく引き戸を開いて、そこにいたのは見慣れた長身。
榎木津だった。
木場は飲みかけた酒の
コップを零しそうになって、そして太い眉をこれ以上ないほど形を歪める。

「まっったく僕が有難く一緒に飲んでやろうという気分の時に限ってお前は会いに来ないのだからお前は本当に駄目だな。あぁ気が利かない!おかげで無駄足を 何度も踏んでしまった。詫びるなら今だぞ、箱男!そして僕に探して見つけてもらったお礼を言うのも今だ!」

「うるせぇな。お前が誰と飲みたいなんか知るかよ。適当な奴でも引っ掛けろ。」
「駄目だ。他の奴らはすぐに潰れて面白くない。まったく酒の楽しみ方を分からない人間が多すぎる!嘆かわしい。酒の神様に詫びるといい。何なら僕に詫びな さい。お酒の神の代理もしてあげよう。」

ずかずかと大股で榎木津は青木と木場のいるテーブルに近づく。
青木は少しは榎木津には慣れていた、と思っているのだがそれでもやはりこの唐突さに呆気に取られて何も言えないでいた。
そんな青木に気づいたのか榎木津は大きな鳶色の目を見開いて青木を見下ろした。


「うん、何だ、ここにもいるね。酒の飲み方がなっていないコケシが。駄目だよ、君。元はといえば君みたいにお酒にすぐ負けるような人間ばかりのせいで僕は よりによってこんな下駄とばかり飲む羽目になってしまうんだ。情けない。」
「オイ、こいつにまで絡むなよ。」
「誰に声をかけるのに僕はお前みたいな四角い馬鹿に許可など取らないよ。」

そう木場を見下ろして言いながら榎木津はふふ、と笑う。
本当に探してたらしい木場を見つけたせいなのか、榎木津は機嫌が良い様だ。
それでも木場への悪態はいつも通りに次々と吐いているようだけれど。

「こんばんわぁ。」
「!」
ひょろり、と榎木津の後ろから顔を出した青年。
長い前髪を揺らして、疲れた顔でへらりと笑う。まだ見慣れない顔だった。

「良かったですよぅ。ここにいて。もう三店も回ってたんですからね。この人、歩く足が速いから付いていくのにも疲れる。」
「何だよ、お前、ええと、益田だっけか。お前も付き合わされてたのかい。」
益田。
あの事件で顔を合わせてそれっきりだったあの、元警察官だとかいう青年だ。

「木場さんが見つからなかったら僕にお酒を付き合え、と言われたんです。だから本当に見つかってくれて良かったですよ。もうねぇこの前一度この人に付き 合ったんですが、全然ペースが違うんです。僕は二日酔いじゃ済まないんですもの。和寅さんなんか途中で逃げちゃうし。」
「本当にこの下僕は役に立たないね。酔うと酌さえロクに出来ないのだから。まったくこんなのを傍に置いている僕の寛大さにもっと感謝すべきだ!」
「ええまぁね、はい。勿論、感謝してますよ。あ、親父さん、テーブル、並べていいですかぁ。」

ある程度行き着けだから榎木津の事も知っている店の板前は苦笑いで好きにしろ、と言った。
益田はまだ喚いている榎木津を置いて甲斐甲斐しく木場と青木の横にテーブルを引いて椅子も並べた。
それが終わると榎木津は木場の隣に座って木場の
コップを奪う。
「あ、てめ、」
「安酒飲んでいるなぁ。」
「うるせぇよ。ならいい酒をお前が奢れ。」
「いいけれどお前、最後までちゃんと付き合えよ。」

青木は苦笑した。
この二人が揃ったらもっと青木は気をつけないと一時間もせずに潰れてしまう。

「お隣、失礼しますね。」
「あ、はい。」

少しだけ肩を引いて益田が座りやすいようにする。
「青木さん、ですよねぇ。どうもこの節は」
「こちらこそ。」
最低限の会釈をし合うと益田は肩を揺らした。
「お互い大変ですね。これから。」
益田は八重歯を見せてけけけ、と笑う。
これから、というのはあの二人が飲んでいい気分になった頃辺りだろう。
今日はあまり派手に暴れないでくれると有難いのだが。
その場合、後始末は青木と益田でする羽目になる。

「マスヤマ!つまみだ、ツマミ!頼んで来い!」
「いきなり言われても…何が欲しいんですか。」
「知るか。自分で考えなさい。ついでにグラスを運んできなさい。」
「えぇえ…」

「お前、なんだオイ馬鹿。そんなガキを顎で使っていい気になっているなよ。みっともねぇ。」
「だってあれは下僕なんだから仕方ないだろう。下僕は使うものだ!」
「はいはい使われますよぅー」

「………」

上着を脱いで、益田は店の人間を手伝うように皿や酒を運ぶ。
あまり長い時間益田は椅子に座らずに途中からはもう言われずとも立ち上がるようになっていた。
青木の元にも当たり前のように益田は酌をする。
青木は軽く頭を下げた。
「悪いですね。」
「いいんですよ、お疲れでしょう。僕の所はあんなですから暇な時は暇で体力もありましてね。」
「でも、」
「いいんですって。むしろこうやってチョコマカしてないとどんどん飲まされますからねぇ。僕もそこまで特別酒が好きという訳でもないのでこっちのほうが楽 なんですよ。実は。」

すでに榎木津と木場は喚き合いのような状態で、それでも煽るようにどんどん酒を消化している。
確かにある程度のらりくらり、とかわしているのにそれに巻き込まれている青木は実はもう色々な所の感覚が鈍くなる程度に酔いだしていた。
顔はもう赤いだろう。

「青木さんはお酒平気なんですか?」
「平気そうに見えますかね。」
「顔は赤いですけれど口調は確りしているじゃないですか。」

実はもう眠い。

しかし榎木津と木場の二人はもうすっかり盛り上がっている。
益田がせっかくここまで瓶や皿を運んでいたというのにカウンターに顔を出して直接酒屋の親父から酒を頂戴していた。周りの客は迷惑だろうな、と思うがいつ もの事だった。
とりあえず二人があの状態ならさすがに帰れはしないだろうが酒の手を休むくらいは出来る。

益田もそう思ったのか今度こそ席に腰を落ち着かせだした。
何だかんだいって店の中で動き回って熱かったのだろう。
シャツの胸元を緩めて息をか細く吐いた。長めの前髪がぱさり、と落ちる。

「はぁ、まったくあのおじさんは元気だなぁ。」
「木場さんの相棒してた僕が言うのもアレだけれど、よく付き合えますね。」
「まぁ若いので、なんとかね。」
「……警察辞めた甲斐はありますかね。」
「どうでしょうねぇ。」

益田は自分の
コップに入ったもう氷の溶けて薄くなった酒を煽った。

「何で探偵に?」
「言いませんでしたっけ。まぁ単に警察向いてないな、と思ったんですよ。」
「だからといって探偵になる理由にはならないでしょ。」
「…まぁそこは、確かに。」
益田はまたけけけ、と笑う。

「探偵になるにしてももっとあったでしょうに。」
「僕は他に探偵なんて見たことなかったので他に選択肢ないですよ。探偵っていえばあの人なんですから。」

そしてもう一度酒を煽った。
誤魔化すつもりだろうか。

「いいじゃないですか、何でも。」
「……」
「深い理由なんてないんですよ。」

前髪で隠れてたけれど青木は確かに益田の視線の先を見た。
まだ木場と騒いで、でも楽しそうに笑っている榎木津。彼を見ている。
それに気づかないフリをして青木は言葉を続けた。

「ない、んですか。」
「ないですね。」
「榎木津さんの−」
一旦止まる言葉。止めた方がいいような気がした言葉。
けれども酔っているせいかそれは零れる。

「彼の傍にいたかったんじゃないんですか。」

「………」
益田の手が止まった。
ほとんど空の
コップが空中で止まる。

「そういう、」
それでも彼の声は何も変わりもなかった。
顔は一度先ほどより前髪で隠されたけれども、でも一拍置いて青木を見上げた。

「…事でもあるのかもしれないですねぇ。」

益田は
コップをテーブルに置いた。

そしてその顔は笑っている。

笑っている、のに。

「………」
(何だ、その顔は。)

ソレを見て。
頭の奥が痺れるような感覚と共に青木は思わずまた言わなくていい言葉を声に、小さくした。

「…        」
「え?」

酒屋の雑音に押されて消え去った声。


「何ですか、青木さん?」
「…っ、いえ、何でもないです。…本当に酔い、回ってきたかな。」
「あぁじゃあお水貰ってきますね。」

益田が立ち上がる。
青木は思わず顔を伏せた。


何だ、あの顔は。
何だ、あの笑っている癖に、どこか痛んでいるような顔は。

青木は特別察しがいい方ではない。
それなのに気づいてしまうのは、
そうなのだろうと証拠もないのに確信してしまうほどに、そう思ってしまうのは
自分と彼が同じだったからだろうか。


何も出来ないそんな事を分かっていて、近づこうと藻掻く虫ケラのような。
羽もないのに空ばかり見ている芋虫のような。

そして、そんな風に死んでいく
そんな、無価値な恋。


青木はだから誰にも聞こえないようにもう一度、目線の先の益田を見詰ながら呟いた。




「……君は馬鹿だね。」






まるで俺みたいだ。


















                          







           

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