ぽたり、と血が零れる。
ギルベルトの唇を彩る赤。けれどローデリヒには痛みは なかった。

ローデリヒは信じられない瞳でそれを見下ろす。

ギルベルトの血まみれの唇と
自分の…無傷に皮の手袋に包まれた、手。

ギルベルトは−
ローデリヒの指を噛まなかった。


「っ…な…」

僅かに歯は当たった。
けれどすぐに口に含まされた指から逃げるように顔を逸 らし、そして音がするほどに唇を噛んだのだ。
舌ではないだけマシだが相当な出血だった。

気付けのために噛んだのだろう。
もう歯の根は合っていて、そして瞳も焦点が徐々に戻っ てきた。
けれど熱くて苦しそうな吐息は止まらない。
それでも。
「……」

ギルベルトは再び…ローデリヒを、睨みあげた。
赤い。
赤い瞳で、また爛々と。


「っ…は、…!!」

ギルベルトはゼーゼーと吐息を噛む様に、震えを押さえ 込む様に
苦しさを押し留めて理性を戻した。

ローデリヒの指が口に入った瞬間に。


「馬鹿し、てん、じゃねー、っよっ…!」




ギルベルトは自分のために捨てかけた全てを回収したの だ。


その事に呆然とする。
それだけしか出来ない。



「…、なんで…」

(何で)

理性を捨てたのは自分のためで、なのになんでこんな事 で正気を取り戻してしまうのだ。

それなのに、なんでこの手を守る。
この剣にふさわしくなくなった手。

ギルベルトにとって価値はもうない手だ。

なぜそんな理性を張れる。


噛めば良かっただろう。


その無理やり与えられた熱に溺れて、苦痛を忘れて喘げ ば良かっただろう。

そっちの方が何倍も楽なのをローデリヒは知っている。

ローデリヒの指を噛めば、正気になど戻らず楽になれ た。
楽になろうとギルベルトだってしてただろう。
なら何で、正気に戻る。
耐えられないだろう。
騎士として生きたギルベルトに正気でこんな侮辱と苦痛 を受けるのは体に毎日一本づつ釘を刺されるより辛い筈だ。
なぜそんな自分から釘に石を振り下ろし打ち込むような 真似をするのだ。

ローデリヒの指を噛まない。それだけのために!
何で。なんで。

価値などないだろう、お前にとってこんな男の指な ど!!

既に疑問は苦痛で、ローデリヒの胸をぐしゃぐしゃにし ている。


分からない事ばかりだ。

もう嫌だった。気持ち悪い苦しい痛い。
何でそんな事ばかりするんだ。
何で

「何で……っ!!!」
「………」




…ぽつり、と部屋に響く、声。

「…ピア、、ノ、」


「え?」


余程ローデリヒの声が悲痛だったのか。
そうでなければきっと語らずに終わっただろう。
それだけの単語(答え)を呟いてギルベルトは熱で浮か れた血で塗れた唇を閉じた。


ピアノ。

それがローデリヒの指を噛まない理由。



「…………」

その答えがどういうことなのか理解した途端に、ローデ リヒは心臓に爪を立てられそして掻き毟りたい衝動に駆られていた。
そうしないと。
そうしないとこの泣きそうな情けない表情が消せない気 がして。



そして絶対にこんな顔をこの男に見せた くなくて。


「……お馬鹿、さん…」


ローデリヒはそれだけを言って。

ずるずると彼の肩に顔を寄せた。
甘いココアのようなローデリヒの柔らかい髪がギルベル トの肩でくしゃりと触れる。

…きっと他から見たら甘い仕草に見えた。

けれどギルベルトはそんなローデリヒの行為を咎めたり はしなかった。
ローデリヒがもう顔をあげたくないのだと察して、かわ りに口を開いて喋った。

「…てめぇは、、」
「………」
「所詮、坊ちゃん、…なんだからよ。」



ギルベルトもきっと。
後悔していた。



「…似合わない、んだよ。そんな、の…」

嫌いなんだろう、本当は。
剣を持って血塗れになって前線に立って。
そんな事はローデリヒは大嫌いだったんだろう?
けれど。




「………小奇麗な、屋敷に閉じこもって…、
エリザの野郎と、か、フェリちゃんとか…ヴェストとかとさぁ、ゆー…が、に茶会でも、して、さ…ぁ…」




ギルベルトはそんな事に気づきたくなかった。
同じ意義の魂で生まれた事を疑いたくなかった。
だからあの時、強いたのだ。
ローデリヒが騎士である事を。

そうでなければギルベルトと彼が同じ場所になど立てや しなかったのだから。

だけれど。

…だけど。



「……お前は、さぁ…」

分かっている。本当はそれよりも。
最初にギルベルトがローデリヒに気づいたきっかけは血 生臭い旗でも剣でもなくて。
あの音だった。

まだ幼くボロボロで独り、色々な物を失って叫んで、戦 場から帰って来た時に聞こえた音だった。

悲しくて切なくて美しくて、生きる者の幸福と死者の安 らぎを祈る曲。
血が固まりひび割れそうになっていた自分の心臓の音を 蘇らせるようなあの調べ。



「…いつもみてーに…ピアノ、弾いてりゃ、いいんだ、 よ…」




獣、化け物、と罵られてもまだ騎士として戦場で生きる 事以外に選べない自分にも
悲痛な罵りや叫び以外のこんな音で鼓膜を揺らす事を許 される。



誰もいない夜の屋敷の庭であの時、確かに自分は泣いた のだ。





それなのに、ギルベルトはローデリヒに戦う事を望ん だ。
簡単だ。焦がれたからだ。
あの音を奏でる魂と同じ場所に立ちたかった。

自分はけしてそこに行けないから、相手にここまで来る ように仕向けようとした。
そんな卑怯さがあの音を潰そうとしたのだ。

あの音のためにギルベルトはそれを望んだことを忘れ て。愚かに。


だからもうこれだけは傷つけない。絶対に。


他のものは全て傷つけておいて何を言っている、と言わ れれば返す言葉などはなかった。
自己満足だ。分かっている。
でもそうしていたかった。



今も。
そしてあの時も。
















「ローデリヒ!」
「………」

目をゆっくりと開ける。
美しい絹のような金髪が目に入ったからローデリヒは微 笑んでやる。

「あぁ良かった、良かったわ…!」

「……貴方が王冠を被り、ドレスを着て生きているのな らば私も死にませんよ。マリア。」
「…分かっている…分かっています…でも怖かったんで す…」

まだ窓から見える旗はローデリヒの物だ。
国が存続している限り、オーストリアという概念は消え ない。
けれどローデリヒはどうなのか。
絶対に国と繋がっているものなのか。

もしローデリヒが死んだら違うオーストリアがそこに立 つ可能性はゼロなのか?

…そう考えて彼女は怖くなっていた。ありえない空想 だったとしても。
彼女にとってオーストリアも大事だがローデリヒだって 大事な親友だった。
ならば杞憂と分かっていてもそんな心配だってしてしま うのだ。

ローデリヒは泣き出しそうな彼女の頬を撫でるために軋 む腕をあげた。
「−…」


綺麗な、指。

「…プロイセン軍はどうしたんです?」

ギルベルトは?
いや、そもそも自分はどうしてこんな所に寝ているの だ?
自分は一騎打ちに負け、踏みにじられていくはずだっ た。
決着はついたようなものだったのだ。

そしてあの時、指は潰れたかと思った。
あの岩は間違いなく自分の手に落ちていたはずなのに。


「理由は分からないけれど…向こうが一時撤退しまし た。ギルベルトが負傷をしたという噂ですよ。」
「………」
視線を揺らす。

「…どこ、を?」

「…利き腕だか肩だかと聞いています。 運が 良ければこれで体勢を立て直す事が出来るかもしれませんね。貴方は休んでいて下さい。代わりに他国に兵をもっと割いてもらえるよう私がお願いしますか ら…」

「出来ますかね?」

「してみせます。…貴方を戦争に出して 何も出来ないじゃすまないでしょう?私が床に頭をつけたくらいでは足りないくらいです。」
「…すみませんね、マリア。有難う…」

「…さぁ、またすぐに戦いは始まります。私は行きます けれど何かあったらすぐに言って下さいね。きっとエリザベートさんも力になってくれますよ。」
「はい。」


彼女が出て行く部屋をローデリヒはぼんやりと見つめ た。


色々な事を考える度にローデリヒは、そんな訳はない。 とそれを否定した。

だって体を起こそうとしたが起き上がれなかった。
痛みはまだ麻痺しているけれども、恐らくボロボロなの だ。
肉体的な意味だけでいえばあのまま岩が指を潰すよりも 余程、大きな損傷で、そしてそれをしたのはギルベルトで。

ローデリヒの肌を斬り、骨を折り、肉を裂き、内臓を破 裂させて
…誇りさえも全てを踏み躙っても嘲笑う事しかしない男。

もしローデリヒを殺すしかないというのならば躊躇わず にこの心臓を抉る男。

そんな男が−



ただのこの手を庇うように
あの落ちた岩から肩を負傷するのも構わず飛び出したな んて。


そんな物は……気持ちの悪い、…夢か幻覚に決まっていた。


















NEXT


           

Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!